葛飾北斎(鉄棒ぬらぬら)の春画を知ろう!蛸(タコ)と海女は稀代の作品

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2013年10月3日~2014年1月5日まで、ロンドンの大英博物館で春画展が開催されたのをきっかけに、従来の風景などを描いた「浮世絵」ではなく、性愛を描いた「春画」にスポットライトが当たり始めたのを感じています。

日本人は「富嶽三十六景」や歌舞伎絵などで北斎をとらえていますが、北斎は漫画、風俗文化画、風景画、お化け絵、狂画、写生画など多彩な絵を描き、晩年はオランダ人からのの依頼でも絵をかいていたといいます。

中でも、西洋の印象派にインパクトを与えた「HOKUSAI」は間違いなく春画を書いた北斎でした。

2010年にバルセロナのピカソミュージアムで春画展があった際に偶然行ったのですが、ピカソが熱心に春画を真似しようとした絵画をたくさん見つけて、これこそ浮世絵の衝撃だったのだな、と実感いたしました。

葛飾北斎とはどんな人だったのでしょう?

葛飾北斎(1760-1849)は、江戸時代に生きた、世界一有名な浮世絵師です。

なぜ、北斎が世界一なのかというと、「HOKUSAI」はライフ誌の1999年の企画、「この1000年で最も重要な功績を遺した人物100人」の中に選ばれた唯一の日本人だからです。

私は、北斎は浮世絵界のピカソであり、ゴッホだと思っています。

早くから絵を描き始め、89才(満90歳)で死ぬまで沢山の絵を描いた点でピカソであり、誰も真似できない独特の筆致とくせ字で見分けが簡単で、一生貧乏だったところがゴッホに似ていると思います。

北斎は百姓の家に生まれましたが、絵が大好きで、6歳からスケッチを初め、10代で勝川春章の門下となり(今でいうデザイン事務所に入社し、)絵を描き始めましたが、破門になり、独立してデザイン事務所を設立し、娘のお栄(おえい)と二人三脚で作品を作り続けました。

30回名前を変えたり、93回転居をしたり、と、驚きの逸話がたくさんあり、かなりフロンティアをスピリットを持っていた変わり者だったことが伺えます。

当時、浮世絵師は、版元(出版社、プロデューサー)の意向で絵をかいていました。

作った版は版元の買い取り制で、良いものならば高値が付きました。

似顔絵や風景画よりも、やっぱりウケがいいのは春画。

真面目な浮世絵は、幕府の質素倹約令で価格が決められており、今の価格で500円~800円程度の価格でしか売買できなかったのですが、

春画はもともとが違法なので、価格は決められておらず、その分、良いものを作り高価な材料を使えば高価な芸術品として裏で高値で販売できたようです。

生計を立てるために、当時の絵師は、ほとんどの者が春画に携わっていたといわれています。

もちろん、違法なので、皆ニックネームです。北斎の春画のニックネームは「鉄棒ぬらぬら」というストレートな名前でした。

北斎は、自ら「画狂」と称したほど、死ぬまで絵を描き続けた画家です。

75歳で家が火事になり、全財産を失っても、割れたとっくりに墨を入れ、皿の破片を筆置きにして、絵を描いていたとの話も残っています。

89歳で死ぬときに、「天があと5年の間、命保つことを私に許されたならば、必ずやまさに本物といえる画工になり得たであろう」と言い残したという話があり、彼の貪欲な画欲が伺えます。

北斎の約75年の画業の中で、著名な作品は、人間のようなウサギやカエルや町の人のリアルな描写をこまごまと描いた「北斎漫画」

立派な富士山や波の描写で有名な「富嶽三十六景」、海女がタコに襲われる、世界に衝撃を与えた春画、「海女とタコ」等があげられます。

とくに、タコと女人が交わる作品は、実は数多くありますが、この北斎の「海女とタコ」ほど、大タコの不気味さと、ト書きびっちりかかれた迫力のある絵は他に類を見ません。(現代美術家、会田誠はインスパイアされて「巨大フジ隊員vsキングギドラ」という作品を制作していますね)

北斎は版画、肉筆ともに膨大な数の作品を残しましたが、実は春画は10冊程度(絵数十点)しか制作していません。

しかし、この「海女とタコ」の1画で、北斎は世界の春画界に名声を轟かせるとこになりました。

春画の歴史の中で北斎はどういった位置づけでしょうか?

江戸時代の絵をひっくるめて、浮世絵、と言います。

浮世絵には彫ってある版画と手で書いた肉筆画か含まれます。

初期の春画は肉筆画で、上方(京都大阪)中心でした。春画の歴史は、江戸時代初期、浮世絵の始祖、菱川師宣(1618-1694)から始まります。

はじめは本の挿絵程度だったそれまでの絵を、絵画鑑賞に堪えうるレベルにまで高めたのが菱川師宣でした。

この頃は、ト書きがほとんどなく、おちんちんも、体位もそんなに奇異なものはありません。

 

次なるキーパーソンは、鈴木春信(1725-1770)です。

鈴木春信の功績

彼により、多色刷りの木版画、「錦絵」が実現し、彼よりのちの春画は、多色で、多様な場面が描かれるようになっていきます。

そして、三大春画絵師、歌麿、北斎、清長の時代がやってきます。

私たちが春画、ときいて頭に画面いっぱいに男女が抱き合っているのが浮かぶとしたら、彼らの作品でしょう。

この新世代の3名は目の前で見ているようなリアルさが宿った春画を編み出しました。

やはりすぐれた作家は優れたライバルがいるからいい作品を作り続けられるようです。18世紀半ばから、19世紀初頭まで、3人の優れた絵師が浮世絵の全盛期を築きました。

中でも北斎は長生きなので(1849年没)浮世絵の最後の華、歌川国芳(1861年没)にまで、影響を与え続けたのは間違いないでしょう。

この浮世絵の系譜で、北斎が登場し、浮世絵を完成させるのは必然だったのです。

浮世絵は絵師、彫師、摺師の共同作業であるため、また、絵や文章の描き手も、模倣が上手な門人が作っている場合もあるゆえに、誰がどこまでかかわっているのかは見分けが難しく、正確な答えはありませんが、北斎に関しては、文章も北斎が作ったという確かなものが多く残されています、。